特にビジネスにおいては、ら抜き言葉は間違いだとされています。
なぜら抜き言葉がいけないかという理由をネットで調べると、難しいことが書いてあります。文法的におかしくなるとか・・・・。国語の先生が書かれているものが多いように感じます。
しかし、疑問が湧きます。そもそも文法などの「法」というものは、現象、つまり使われている言葉を体系的に整理し、法則を見いだしたものであり、先にあったものではないはずです。
それが証拠に、文法には例外がたくさんあります。活用でも部分的に法則が崩れているところがあります。これは、後から法則を当てはめているからです。つまり文法ありきで語ること自体がおかしいのではないかと思います。
言葉というのは、まず人と会話するところから始まっていますから、話し言葉が先にあるはずで、ら抜き言葉も、会話上の合理性から生まれてきているはずなのです。
違う例だと若者言葉から始まってすっかり定着している「超〜〜」。
「超うれしい」とか「超怖い」とか。もういい歳した大人でも使いますよね。それは「超〜〜」でしか伝えられない感覚があるからです。
言葉というのは常に合理的に変化していきます。
ら抜き言葉も、そう言うもののはずです。むしろ、ら抜き言葉には非合理的な問題があります。一番問題なのは、可能か受け身かが分からない事です。
「食べれる」は可能であることが分かります。」「食べられる」では、可能なのか受け身なのか尊敬語なのか分かりません。それは文脈から判断できるだろうと言われそうですが、それは合理的ではありませんよね。言葉そのもので機能が明確になっている方が分かりやすいはずです。言葉は、何かを伝えるためのものなので、まず分かりやすいことが重要です。
そう考えると「ら抜き言葉」というのは、文学的な場面で含みを持たせるあるいは、遊び心で使われ始めたのではないのでしょうか?(全くの憶測ですが)
文学的な場面では、あえて言葉を換えて想像力やニュアンスを楽しむということがあると思います。
ら抜き言葉の法が後から生まれたそうなので、より合理的な表現として誕生したのではないでしょうか。そういう面で考えると、現代でら抜き言葉が間違いだとされている理由が良く分かりません。
「日本語文化を壊す」みたいなことも見受けられますが、それは文化ではなく伝統ではないでしょうか。文化と伝統もよく混同されがちです。
文化というのはいつの時代にも生まれて変化していく物で、それが脈々と通津いている物は伝統です。伝統と文化は区別されるべき物です。
合理的に変化してきた「ら抜き言葉」も日本語の立派な文化です。
特にビジネスでは、ものごとを簡潔に伝えることが必要です。ら抜き言葉の方が合理的だと思うのですが。